平家の落人伝説、五家荘
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平家の落人伝説、五家荘
私は、あまり歴史については詳しくない。
それでも、時として、歴史上の人物に興味がわくことがある。おしなべて言えることだが、歴史上の人物を見るとき、極悪人として歴史に記憶されている人でさえ、その一生を辿ると、何かしら憎むべき人というより、どこか悲しい人のように私には、思えて来る。
追い込まれ、歴史上の必然として、その役割を演じなければならなかったことさえあるように思ったりする。その本人は、悲しいかな、そのように、歴史に残されることになる。
熊本県五家荘に行ったことがあった。もう、10年ほど前探索四十課程になる。訪れたのが夏だったせいなのか、今日、ふと思い出した。
$BOOTS STRAP
熊本県五家荘 写真提供元 MORIMORI
熊本県五家荘は、平家落人伝説の村で、そこに住む人たちは、屋島、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落人たちの子孫だと言う。五木の子守唄で有名な五木村から、さらに宮崎県寄りの山また山の隠れ里。たしかに、かなりの山間(やまあい)の里だ。
一般的に語られる史実と違い、五家荘の郷土史家によると『五家荘』は、平清盛の孫「平清経」一族が隠れ住んでいた村だと言う。
ちょっと馴染みがないかも知れませんが、歴史上、「平清経」は、屋島、壇ノ浦で破れ、父、平重盛の家人であった太宰府の緒方維義に叛旗を翻探索四十され、そこから逃げ延びたが、大分の柳ケ浦から船に乗り、行く末を悲観して入水自殺をしたことになっている。
横笛の名手で、享年21歳。世阿弥が書いた能の演目にもこのストーリーが展開されている。
五家荘の史家の説では、「平清経」は、大分の緒方家の姫をさらい、緒方三郎と名乗り(重盛三男だから)、緒方家が五家荘で出発した、と。私は、展示された家系図を五家荘の公民館のようなところで見た覚えがある。
逃亡は、容易でなかったことが窺える。平氏一門は、皆殺し。源頼朝を温情で、生かしていたがために仇討ちされてしまうということを頼朝自身が、証明しているようなものだった。草の根分けても、皆殺しにしなければならないという鉄則があった。
平清経が逃れたであろう落人の村は、雨や霧の日以外は、煮炊きもできない。立ち上る煙で、人がいることが判ってしまうからである。源氏の追っ手が、この奥深い山間にも来ていた。命をかけた避難だったと推測できる。
ここには、平家の落人が、「平清経」だったろうと推し量ることができるものが多い。その一つ、父である平重盛は、内大臣をつとめた。小松内大臣と呼ばれていた。そして、史実から、その嫡男「平清経」も内大臣となったともある。五家荘の美里町砥用には、「内大臣」という地名があるそうだ。その奥には「小松神社」があるという。
これでもかと言う証拠立てである。その論拠に負けて平家の落武者探索四十は「平清経」らしいと結論づけなければならないと思ったりする。
この題材の中で、勝手な物語を構築し私の心は、遊び始める。
『史実の上では、平重盛の家人であった太宰府の緒方維義に叛旗とあるが、源氏を招き入れては、滅ぼされるのは必定。そこで、ひと芝居を打ち「平清経」に叛旗を翻したことを示すことが、緒方維義が生き延びる手だてであったろうと思う。涙を流しつつ「平清経」を追い払う。
そして、緒方家の姫は、さらわれたのではなく、逃げていかなければならない「平清経」に恋いこがれ、すがって附いていく姿を私は、想像する。
逃れていった五家荘の山間の里で、世が世であればと思い『いつしか都へ』の思いを持つ「平清経」。あるとき『実感として』愛する姫とのひっそりとした人生こそ素晴らしことだと気付く』
そんな想像の物語を思い浮かべたりした。
10年前に訪れたときには、このような物語の想像はしなかったが、
この里に、隠れた歴史の彩の香りがしているのを感じたのは事実。
上記の写真にあるような紅葉の頃に再訪したいと思う。
それでも、時として、歴史上の人物に興味がわくことがある。おしなべて言えることだが、歴史上の人物を見るとき、極悪人として歴史に記憶されている人でさえ、その一生を辿ると、何かしら憎むべき人というより、どこか悲しい人のように私には、思えて来る。
追い込まれ、歴史上の必然として、その役割を演じなければならなかったことさえあるように思ったりする。その本人は、悲しいかな、そのように、歴史に残されることになる。
熊本県五家荘に行ったことがあった。もう、10年ほど前探索四十課程になる。訪れたのが夏だったせいなのか、今日、ふと思い出した。
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熊本県五家荘 写真提供元 MORIMORI
熊本県五家荘は、平家落人伝説の村で、そこに住む人たちは、屋島、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落人たちの子孫だと言う。五木の子守唄で有名な五木村から、さらに宮崎県寄りの山また山の隠れ里。たしかに、かなりの山間(やまあい)の里だ。
一般的に語られる史実と違い、五家荘の郷土史家によると『五家荘』は、平清盛の孫「平清経」一族が隠れ住んでいた村だと言う。
ちょっと馴染みがないかも知れませんが、歴史上、「平清経」は、屋島、壇ノ浦で破れ、父、平重盛の家人であった太宰府の緒方維義に叛旗を翻探索四十され、そこから逃げ延びたが、大分の柳ケ浦から船に乗り、行く末を悲観して入水自殺をしたことになっている。
横笛の名手で、享年21歳。世阿弥が書いた能の演目にもこのストーリーが展開されている。
五家荘の史家の説では、「平清経」は、大分の緒方家の姫をさらい、緒方三郎と名乗り(重盛三男だから)、緒方家が五家荘で出発した、と。私は、展示された家系図を五家荘の公民館のようなところで見た覚えがある。
逃亡は、容易でなかったことが窺える。平氏一門は、皆殺し。源頼朝を温情で、生かしていたがために仇討ちされてしまうということを頼朝自身が、証明しているようなものだった。草の根分けても、皆殺しにしなければならないという鉄則があった。
平清経が逃れたであろう落人の村は、雨や霧の日以外は、煮炊きもできない。立ち上る煙で、人がいることが判ってしまうからである。源氏の追っ手が、この奥深い山間にも来ていた。命をかけた避難だったと推測できる。
ここには、平家の落人が、「平清経」だったろうと推し量ることができるものが多い。その一つ、父である平重盛は、内大臣をつとめた。小松内大臣と呼ばれていた。そして、史実から、その嫡男「平清経」も内大臣となったともある。五家荘の美里町砥用には、「内大臣」という地名があるそうだ。その奥には「小松神社」があるという。
これでもかと言う証拠立てである。その論拠に負けて平家の落武者探索四十は「平清経」らしいと結論づけなければならないと思ったりする。
この題材の中で、勝手な物語を構築し私の心は、遊び始める。
『史実の上では、平重盛の家人であった太宰府の緒方維義に叛旗とあるが、源氏を招き入れては、滅ぼされるのは必定。そこで、ひと芝居を打ち「平清経」に叛旗を翻したことを示すことが、緒方維義が生き延びる手だてであったろうと思う。涙を流しつつ「平清経」を追い払う。
そして、緒方家の姫は、さらわれたのではなく、逃げていかなければならない「平清経」に恋いこがれ、すがって附いていく姿を私は、想像する。
逃れていった五家荘の山間の里で、世が世であればと思い『いつしか都へ』の思いを持つ「平清経」。あるとき『実感として』愛する姫とのひっそりとした人生こそ素晴らしことだと気付く』
そんな想像の物語を思い浮かべたりした。
10年前に訪れたときには、このような物語の想像はしなかったが、
この里に、隠れた歴史の彩の香りがしているのを感じたのは事実。
上記の写真にあるような紅葉の頃に再訪したいと思う。
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